mimiの散策~~解釈は人それぞれですけれど。

私たちの持つ、自由意思。この自由意思にはいかなる高級な霊魂も神霊も逆らえず、その人の意思を曲げてまで、手助けをするということはできません。

だからこそ、何をしてもいいというわけではないでしょうし、さらに難しいのは、自分で気づくしかないということです。

学生の頃とかは、遊んでいたツケが成績や評価に反映され反省する、なんてよくありました。でもそれは、その後の頑張りで挽回ができたり、修正もできました。

けれど、『人生をどう生きるか、生きているか』という大局に立った時、今、信仰もなく気ままに生きたツケはどこで来るのかといったら、死後のセカイへ旅立ってからになってしまうように思います。

人生に行き詰まったり、挫折した時に、何かを「気づく」ことも必要と言われますが、そういうことでもないと、私たちは気づかないのでしょうか・・?

〔信仰がない〕とは、自分を見守っている守護霊指導霊といった存在を信じていないことも、死後のセカイを否定している宗教を信じていることも含まれます。〔信じない〕とは、気づく機会を得られないままに生きてしまう、そういう怖さをはらんでいるように思えました。

◆ 『霊魂イエス 上巻』- 霊魂の世界から人々を導く


◆ 『霊魂イエス 下巻』- 霊魂の世界から人々を導く


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