富士の風に吹かれて~契山館 静岡分会

霊的な真実を探る旅に出かけよう!

仏教

予定調和≠宣布

契山館静岡分会のmr.poraiです。

今回もmr.porai節にお付き合い下さい。

なんとなくタウン情報に注意しておりますと、一般聴衆を対象として、有名な僧侶の講演会が行われる旨の告知を見聞きすることがあります。

有名な僧侶と言いましても、宗旨宗派はさまざまです。

聴衆がそれぞれの宗派の檀家など、関係者であれば、信者の教育を目的とした「教学(きょうがく)」に沿って、話もできましょう。

この場合、講演の顔は「教え」であります。よって講演者は、必ずしも有名な僧侶でなくても事足ります。

ところが一般人対象の講演会では、客寄せパンダ的な理由で「有名僧侶」を起用することになるのでしょう。

そうしますと、どなたが聞いても当たり障りのない話にしないと、有名僧侶のブランドにも関わりますので、何かと不都合です。

よって有名僧侶の講演内容には自主規制がかかってしまい、聴衆の期待を裏切らない予定調和的な話に終始しがちです。

講演会のタイトルから、おおよその中身の見当は付いてしまうゆえんです。

実はmr.poraiも、このような講演会に行ってみたい気持ちもあります。

ですが、こういうイベント会場には低い幽気がことさら渦巻いている場合があるようです。

何となくそれを感じるからでしょうか?

いざ出かける当日になると、どうも出掛ける気にならず、結局は行かずじまいになってしまいます。

仕方がないので、後日、講演会に行った人に声を掛け、感想を聞く機会を得るようにしています。

聴衆の1人、また1人というフィルターを経ていますので、講演会の詳細については判りません。

そんな状態ですから、無責任にも、良かっただの、つまらなかっただの、言う立場にありません。

ですが、宗教者が行うさまざまな講演会の感想について、訊ねることを繰り返すうち、ある種のパターンが感じられました。

よくあるパターンとしては「宗教者が発見した気づきを、各宗派の主張に絡め、面白おかしく時には涙ありで聞かせ、何となくウケるもの」が王道でしょう。

なかには意外性に富んだエピソードを散りばめ、聴衆を飽きさせない達者な話者もおられますが、話の枝葉の部分はどうであれ、最終的には予定調和の枠内に収まっているようです。

講演会主催者のニーズは、一般聴衆の満足であり、話者はそのような空気を、自然と読むのでしょう。

講演内容の事前打合せの有無に関わらず、話の内容は講演会主催者のニーズに沿って進むしかないと思えます。

結果、有名僧侶の講演会は、つまらなかろうが、面白かろうが、予定調和の枠内に収まってしまうこと、請け合いです。

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この御著書には「ラ・ムー師と弟子達の活動」が書かれております。

ラ・ムー師の時代と今の時代では、状況的に似通ったところ、また大きく異なったところがあります。

現在、ほとんどの方が、「霊的真実の探求」をされておられません。

いち早く救われたいと願う幽体のニーズと一般聴衆の肉体の意識のニーズには、大きなズレがあります。

地上の世界を生きる以上、肉体の意識が主導権を持ちますので、水波霊魂学の宣布を行うとき、多大な困難が発生します。

一般聴衆の肉体の意識が満足する、予定調和的な話題の延長線上で、水波霊魂学を語る手立てや道筋は、あまりないように思えます。

もっとも、一般聴衆の幾人かのニーズが「霊的真実の探求」へとシフトされれば、状況は変わるチャンスがあります。

できることからひとつずつしか出来ませんので、及ばずながら、何かとぼやいているmr.poraiなのでした。

写真がないのもさびしいですから、本日撮影の富士山(2018/10/28)を添えます。

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お彼岸

お彼岸とは、3月の「春分の日」、9月の「秋分の日」の前後3日間を合わせた7日間と言われます。

本来のお彼岸とは、修行をして、彼岸にある涅槃の境地に到達する事だと言われます。

また太陽が真東から真西へ沈む「春分の日」「秋分の日」に、西方に沈む太陽を極楽浄土として、礼拝する想いから「日願(ひがん)」とする説もあります。

しかしながら、現在のお彼岸は、おはぎなどをお供えして、先祖を供養する日、お墓参りをする日といったイメージが強いと言えます。

ほぼ、お盆の第2バージョンといった感じでしょうか?

しかしながら、霊的な視点からすると、地上の人間が、お供え物をしたり、お経を唱えたりして、死者が救われるという事は、決して有りません。

また願い事をして、それを叶えるような霊力が先祖に有る訳でも無く、願う事によって、却って、先祖の霊魂を迷わせてしまう可能性さえ有ります。

勿論、先祖や亡くなった、お爺ちゃん、お婆ちゃんを、偲び、敬う事であれば、何も問題は有りません。

それは、人間の自然な気持ちからだと言えるからです。

それが、急に成仏させようとか、逆に、お爺ちゃん、お婆ちゃんは、仏に成ったのだから、何でも願いを叶えてくれると思うと、大きな失敗を生みます。

仏と言う言葉の定義にもよりますが、人が死んで、いきなり、阿弥陀如来や大日如来のように成る事など、絶対に有り得ません。

ただ、生前に、真剣な信仰や、何らかの宗教的、霊的修行を行なっていれば、一般の人から見れば、天使や菩薩のように光り輝く、高級な霊魂に成る事は有ります。

とは言え、生きている間に、神も仏も無く、全くの無神論で生きた人には、そのような事は起こりません。

何故なら、無神論の生活をしていると、高級な霊魂からの高級な幽気、つまり高級な霊的エネルギーを、自身の幽体が吸収する事が出来ないからです。

ただ、物質的な生活だけを送っていると、それは無理なのです。高級な霊魂との接点が全く持てないのです。

高級な霊魂との接点を持つには、信仰や祈り、霊的な修行が必要なのです。

幽体が高級な霊的エネルギーを吸収していないと、幽体の体力が無いので、幽体からの光とも言える、幽体オーラが全く出ません。

幽体オーラが出なければ、自身の守護霊、指導霊の霊的視覚に入らないので、死後、高い世界に導いて貰う事が出来ません。

その上、幽体の体力が無いので、霊的に光の強い世界には、その幽体が耐える事も出来ません。

自ずと、光の弱い、下の幽界へ吸い込まれていきます。運が悪ければ、不道徳な霊魂の視覚に入り、手を引かれて行く可能性も有ります。

それ程に、人の幽体の状態というものが大切なのだと言えます。

また、先祖に対して供養をしたとして、それが届く可能性は殆ど有りません。

上に昇ったか、下に下がったかは、分かりませんが、既に、あの世の生活に入っているので、地上の人間の想いは届かない所に居るのです。

それでも、上の世界に昇っていれば、子孫の様子を、上位の霊魂の許可を得て、見に来る可能性は有ります。

しかし、下の世界に入った霊魂にとっては、今まさに、地獄の苦しみを味わっているのに、地上の人間が供養をしようと、それどころでは無いのです。

故に、仏壇もお墓も、実際には、先祖の霊魂が来る可能性は殆ど無く、寧ろ、質の低い幽気で満ちていれば、不道徳な霊魂が集まって来る可能性が有ります。

だからと言って、家の仏壇やお墓を、無闇に無くせば良いという訳でも有りません。

やはり、家族や親戚との関係も有りますし、常識の範囲での葬儀や供養なら問題は無いし、周りとの軋轢を生まない為にも大切な事だと言えます。

要は、世の中の霊能力者が言うような、何でも供養供養と極端に走らなければ良いと言えるでしょう。

霊的な修行者であれば、仏壇やお墓に、もし霊的な穢れが有っても、それを祓い清める事も出来ます。

先ずは、霊的な真実を知り、次に、全体との関係や調和を鑑みながら、上手く調整していく事が大切だと言えるでしょう。

太郎

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諸行無常

自宅の部屋に有るドアノブが回らなく成ってしまいました。

ドアノブを外して、確認したところ、どうやらラッチと言われる部品の故障だという事が分かりました。

約10年、住んでいるので、いろいろと壊れるものも出てきます。

自分で直せるレベルなので、取り敢えず、ラッチを外しておいて、改めて、ホームセンターへ部品を買いに行こうと思います。

さて仏教では、諸行無常という言葉が有ります。

世の中、全てのものは、常に変化して不変のものは無いという意味が有るようです。

確かに、どんなに硬いダイヤモンドでも傷が付かない訳では無いし、壊せない訳でも有りません。

無限と思われる、この宇宙も、悠久の未来には消滅するのかも知れません。

また少なくとも、今の科学では、永遠の命も有り得ません。

つまりは、物質ばかりに執着し、それのみを追い求めても、それは、いつかは行き詰まり、虚しいものと成ってしまうでしょう。

また人間は、物質的欲望を満たすだけでは、満足できないように成っているように思います。

何処かで、心の中を空虚感が通り過ぎていく...。

やはり、それは人の本質が物質では無いからと言えるでしょう。

水波霊魂学では、人は、本来、霊的生命体と説きます。

死んだら終わりの単なる肉の塊では無いのです。

確かに、肉体は死ねば、朽ちて土に還るだけと言えます。

大自然の循環を廻るだけの実体の無い存在です。

しかし人は肉体とダブった幽体を持っているのでした。

そして肉体から離れた幽体は、あの世での生活を始めるのです。

とは言え、肉体と幽体は全く別の存在かと言うと、そうでも有りません。

この世の人生にも大きな影響を与えています。

肉体と幽体が不離一体で人生を歩んでいるからと言えます。

幽体が健康か不健康かで、肉体が病気に成る事も有りますし、霊的には、低い霊魂に寄られたり、低い幽気が付着、または吸い込んだりで、この世の人生が悪い循環に入る事も有ります。

悪い事ばかりが、続くという人が居ます。

そうした方は、霊能者を訪ねるよりも、やはり自身の幽体を鍛える事が根本的な解決に至る事に気づいて頂きたいと思います。

また幽体を鍛えるという事は、高級な霊魂よりの高い幽気を、自身の幽体に受ける事に成ります。

自身の幽体は、日常の生活では決して受けた事の無い、高い力に感激し、感涙します。

人の正体は幽体に有り、幽体の真の幸せは高級な霊魂より、高い力を受ける事にこそ有ったと言えます。

それは人の深い部分からの喜びであり、物欲を満たす事のみの上辺だけの幸せとは異なります。

人の心は物質だけでは満たされないのです。

しかし高級な霊魂よりの力は、求めない所には決して降りて来ません。

神を認めず、霊魂を否定する所に、救いの光がもたらされる事は無いのです。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」

物質には実体が有りません。物質ばかり追い求めても、常に流れ消え行き虚しいばかりと言えるでしょう。

背後に有る、自身の正体に気づいた時、初めて、この世でもあの世でも、真の幸せに繋がっていくと言えるでしょう。

太郎

仏教2

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ある修行者の独り言(苦行する釈迦)

苦行する釈迦1
パキスタンのラホール美術館に、有名な「苦行する釈迦像」という仏像があります。上記は私が模倣した下手な絵ですので、興味のある方はインターネットで検索してみてください。 本物は、ガンダーラ美術の最高傑作と言われるだけあって、人を圧倒する迫力があります。

私が初めて「苦行する釈迦像」の写真に出会ったのは、今から17年くらい前、まだ契山館に入会する前でした。一目見るなり、魂が震えるような感動を覚えました。

釈迦が厳しい苦行を行ったことは伝承されているところですが、それが仏像という形で視覚的に表現されると、その修行の凄まじさがリアルに伝わってきます。

こうまでして真理を求めた釈迦に対しては、深い畏敬の念を持たざるを得ませんでした。
 
現代の日本は、宗教に入った人に対しては、世間は「弱いから宗教に走ったのだ。」と揶揄したり、「変人」扱いする傾向があるようです。

しかし、この苦行する釈迦像を見て、「釈迦も弱かったから、現実から逃げたのだ。」等と、嘲笑する人はいるでしょうか?
 
本来、王族として贅沢三昧な生活を送れるはずのところ、釈迦は全てを捨てて出家されています。もし釈迦が弱い人間だったら、人も羨む環境を捨てて、真理を求めて命がけの修行をする事など不可能でした。

苦行する釈迦2

もっとも、「釈迦は仏教の開祖だから特別だ。我々のような人間が宗教を求めるのとは訳が違う。」と言う人もいるかもしれません。

確かに、私達と釈迦とでは、月とスッポン以上の違いがあります。しかし、神仏の存在を探求し、真理を追求したいと願う点については、私達も共通しているのではないかと思います。

「求める」というのは、この世で幸福に暮らせるような方法論を模索するのとは違います。

人間の魂には、本来的に、神仏を求める指向性が備わっているのではないかと思います。そして、その指向性が意識の上に上がり、超自然的な存在を求め、それに触れたいという衝動が魂の奥底から沸き上がってきた時、人は真理を求めて宗教の門を叩くのではないでしょうか。

それ故、宗教も、神仏に御利益を願うために存在するものではなく、また、現実逃避したい者に居心地の良い世界を提供するものでもありません。霊的世界の真実を伝えるのが本来の姿だと思われます。

苦行する釈迦3

宗教が嫌いな人の中には、「仏教は哲学だから良い。」と言う人もいらっしゃいます。つまり、宗教っぽくない点で、許容できると言うのでしょう。

しかし、仏教が内容的に哲学であるならば、キリスト教、イスラム教と並ぶ三大宗教に入る事もないはずです。

また、釈迦にしても、苦行は不要との結論に至るまで、死と隣り合わせになって苦行し、最終的には悟りを開いたところ、「人が幸福になるための人生哲学を説いた」等と言われるのは、不本意ではないでしょうか。

釈迦は、キリストと同様、人類史上希に見る大神人です。霊的真実を人々に説こうとしたに違いありません。

私は、科学信仰とも言うべき現在の世の中において、一日も早く多くの人達が目覚め、霊的な真実を求めるようになることを、願ってやみません。

by ドーン

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